ロマン・ガリを読んで元気回復
先週から個人的なことでぼんやりともの思うところがあり、そのうえ気にかかる仕事が立て込んできていて、少々疲れたなぁ~という気分。こういうとき、生きるのが上手な人はきっと、パッとスポーツジムへ体を動かしに行ったり、ジョギングで汗を流したりして、心身をスッキリさせるのだろう。昔から、そういう切り換え方が私はうまくできない。これで、いつでも、どこでも、長時間眠れるという、生来の(?)暢気さ・図々しさを持ち合わせていなかったら、これまでの人生ですでに何度か神経を摩耗させてしまっていただろうと思う。
ただ、幸いにして私には一つ、これさえすれば嫌でも憂さが晴れ、希望を恢復し、やる気がびんびんと湧いてくる、という方法がある。その方法とは、何のことはない、自室の本棚に手を伸ばし、いつ読んでも立論の精緻さに感服しないではいられない幾人かの哲学者の本、あるいは、読むたびにその人間洞察の深さと独創的なコミュニケーション力に舌を巻いてしまう幾人かの作家の本に、時間を気にせず、エイヤッと首を突っ込んでしまうことだ。どこからでもいいから、1頁、2頁、10頁、30頁……と読み進める。40-50頁目にはもうすっかりそのテクストに夢中になり、嬉しくなり、心だけでなく、体にまで元気が満ちてくる。
今日は夕方から、フランス語でplaquetteと呼ばれる、日本の文庫本程度の判型の60p.ほどの本、ロマン・ガリのLe judaisme n'est pas une question de sang.(judaisme ― トレマ付き ― は訳しづらいが、仮に『ユダヤ人であることは血筋の問題ではない』と訳しておこう)を読んだ。ガリの生前に雑誌上で一度活字になったインタビューを主に収録した本である。案の定、効き目十分! 気分が快晴になった。
「おお、そうだとも!」と独り納得しながら赤鉛筆でアンダーラインを引いた箇所を、以下に列挙しておこう。日本でまだよく知られていない、あるいは誤解されているロマン・ガリ(Romain Gary, 1914-1980)について、若干のイメージを提供するためにも役立つだろう。このサイトを訪問される方々のパソコン画面上で文字化けするのを避けるために ― こんな必要があるのかどうか分からないが ― 、フランス語のアクサンやセディーユは意図的に省く。
●Dans la mesure ou de Gaulle se serait engage dans des actions qui auraient ete completement contraires a mon idee de De Gaulle, je m'en serais completement separe.(もしドゴールが、私が抱いていたドゴール像に完全に反するような行動を始めるようなことがあったなら、私はドゴールと完全に袂を分かったでしょう。) ― ロマン・ガリは戦時中のレジスタンス以来、ドゴール将軍(大統領)の信奉者であったが、彼はドゴールという人物にも、ドゴール派の政党にも、「入信」したことはなかった。ガリはあくまで自由人だった。
●Je suis ferocement anti-nationaliste. (...) Le nationalisme, c'est le cancer du patriotisme.(私は獰猛なまでに反ナショナリストだ。(……)ナショナリズムは、パトリオティズムにとりつく癌細胞なのだ。) ― ガリはパトリオティズムとナショナリズムを峻別していた。「パトリオティズムは同胞への愛である。ナショナリズムは他者たちに対する憎しみである」という彼の言葉が、フランスではかなり人口に膾炙している。
●... toute mon oeuvre est la recherche de l'humain fondamentale, de l'humain essentiel.(私の作品はまるごと全部、根本的に人間的なもの、本質的に人間的なものの追究なのです。) ― ロマン・ガリにとってユダヤ人は長い期間、le cas extreme de l'homme(人間の極限的ケース)だった。彼がアメリカの黒人のことを真剣に考えたのも同じ視点からだった。
●Le nazisme n'etait pas seulement politique : c'etait quelque chose d'humain.(ナチズムは単に政治的なものではなかった。それは「人間的な」何かだった。) ― このフレーズに先行して、「(歴史的に迫害されてきた)ユダヤ人であろうと、(現在差別を受けている)黒人であろうと、(迫害者・差別者たる)ドイツ人に、ナチに、ならないとは限らない」という文がイタリック体で強調されている。
●Ainsi, je considere l'artiste, le romancier, comme une sorte d'agent provocateur. L'art est ennemi naturel de tout "ordre des choses".(このように私は、芸術家を、小説家を、一種の挑発者と見なしている。芸術はその生まれつきからして、あらゆる「物事の秩序」の敵なのだ。) ― この根元的アナーキズムに注目しなければ、ロマン・ガリのことは絶対に分からない。戦後フランスの多かれ少なかれ「左翼」的なジャーナリズムは、ガリの政治的立場や風貌ばかり見て、保守派のレッテルを貼りがちだったという。愚かな、そしてありがちなことだ。
●Le style est quelque chose de variable. Cela consiste a tirer le maximum de ce qu'on essaie de communiquer.(文体は可変的なものです。伝えようとする内容を最大限伝えるためのものです。) ― ガリは、決まったひとつの型の文体で「売って」いた作家ではなかったし、文学は結局文体の問題に尽きるなどという考えの持ち主でもなかった。コミュニケートしたいことを溢れるほどに抱えていた彼には、文体フェティシズムに淫するような暇はなかった。
●Mais c'est justement parce que ma soif de vivre est illimite que j'ecris.(しかし、まさに生きることへの渇望に際限がないからこそ、私は[毎日、毎日]書くのです。) ― 空軍士官としても、外交官としても活躍したロマン・ガリは、行動派の風貌を持ち、一見して書斎人には見えなかった。しかし彼は一生涯、執筆しない日が一日もないほどに執筆を続けたという。彼の想像力の中には何十人もの作中人物が生きていた。いや、彼自身が想像力によってその何十人もの作中人物を生きていた。































































この本、前から気になっていました。
同じシリーズの「Ces femmes que j'aime」を読みましたが、これがまたすばらしいです。
こんど、チェックしてみます
先生の言及してらっしゃる
「パトリオティズムは同胞への愛である。ナショナリズムは他者たちに対する憎しみである」
実はこの言葉に出会ったのは意外なところででした。ソフィー・マルソーのデビュー作「La Boum」の続編「La Boum2」の中で、彼女は3eme(中3くらい)なのですが、学校での試験(おそらくフランス語の授業)のシーンがあり、そのときの問題が「ロマン・ガリの言葉『パトリオティズムは同胞への愛である。ナショナリズムは他者たちに対する憎しみである』を解説せよ」というものでした。
映画の一こまなので、出典は相変わらずわからないのですが、先生はご存知ですか?
投稿: 大西 | 2009年6月13日 (土) 07時46分
上のコメントを書きつけてくれた「大西」氏は、慶應SFCの大学院でアニー・エルノーに関する修士論文を書いている人です。((←この記述は誤りであることが判明しました。たいへん失礼しました!数時間後の書き込みを御覧ください。堀拝))
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Ces Femmes que j'aimeは私は未読です。当面の仕事に一区切りつけたら、来週さっそく読もうかな。
「パトリオティズムは同胞への愛である。ナショナリズムは他者たちに対する憎しみである」というフレーズは、ロマン・ガリが第二次世界大戦下、「自由フランス」の空軍兵士として戦っている最中に書いた長編小説、Education europpenne(「ヨーロッパ教育」)の中に出てきます。飛行小隊に参加し、命がけで戦っていた時期に書きつけられた言葉なのです。
Education europpenneはガリの出世作であり、彼の初期を代表する傑作です。当時やはり「自由フランス」軍に参加していた哲学のレイモン・アロンもたまたま原稿を読み、ガリが将来、文学で成功するにちがいないと思ったといいます。さっそく英語に訳されてまずロンドンで本になり、評判を取りました。フランスで仏語オリジナル版が出たのは、戦後の1945年のことでした。
投稿: Eleutheria(堀) | 2009年6月13日 (土) 14時40分
こんにちは。「慶應SFCの大学院でアニー・エルノーに関する修士論文を書いている」大西です。
この記事に一番最初にコメントされた「大西」さんは、私と同姓ではあるものの、私とは違う方だと思います。
6月13日の午前7時ごろに、コメントを記した記憶がありませんし、恥ずかしながら、私はまだガリの著作を読んだことがないのです…(汗)。
私が、ガリの著作にお詳しいもう一人の「大西」さんに扮するのは、畏れ多いという気がいたしましたので、コメントさせていただきました。
投稿: ksk0024 | 2009年6月13日 (土) 15時57分
皆さまへのメッセージ:
まず、大西さん、大西君、
たいへん失礼をいたしました。
早合点で、同姓のお二人を混同してしまいました。お詫びいたします。
私はこのブログをWebのパブリック・スペースに提示している以上、たとえ明らかに知己である人が書いてくれたコメントと、それに対する私の返事であっても、「内輪」のコミュニケーションのような様態であっては、一般の方に対して閉鎖的な印象を与えかねないので、私とどういう関係にある方と私とのやり取りであるのか、合点がいくようにしたいと考えたのでした。
それは、ウェブ上のコミュニケーションをリアル空間のそれに準じるのような形にするとか、匿名性を排するとか、そういうことではなく、むしろ、対話のコンテクストとリファレンスを明示的にして、たまたまその対話を目にする一般の方にも、訳が分かるようにしたいということです。ウェブに公開している以上、街の広場(公共空間)での討論やお喋りのように、第三者にも理解可能なものとして提示したいということです。
そうした考え方のゆえに、このたびいただいたコメントをてっきり、現在私を指導教授としてフランスの現代作家アニー・エルノーに関する修士論文を書いている学生さんのものと思い込んだ私は、<あえて>そのように紹介させていただきました。そうしないと、コメンテーターと私がなぜか暗黙の了解の上で内輪話をしているように見え、第三者には腑に落ちないだろうと思ったわけです。ところが、これが完全な人違いだったのです!
コメントをくださったのが、今度こそ間違いなく、私の存じているもうお一方の「大西さん」であるとしての話ですが、そうだとすれば、"Education europpenne"がロマン・ガリの出世作である等々のことは、釈迦に念仏というか、今更述べるまでもありませんでした。ほんと、失礼しました。
最後に一点、申し上げておきます。
大学での私との関係において学生or元学生の立場にある方も、日仏学院で私の授業の受講生or元受講生である方も、このウェブサイトで発言される際、私に「先生」と呼びかけてくださる必要はまったくありません。また、何らかのハンドルネームや匿名でコメントを寄せてくださっても、いっこうに構いません。その場合はもちろん、ハンドルネームや匿名で表示させていただきます。
以上、お詫びかたがた、よろしくご理解をお願いします。
投稿: Eleutheria(堀) | 2009年6月13日 (土) 22時01分
堀先生、大西さん、
ついついいつもの悪い癖が出て、内輪モードでコメントしてしまいました。申し訳ありません。
同姓の方がいらっしゃるということで、今後はフルネームで発言させていただきます。
Education europeenneは翻訳の授業で読んだときに読んだはずなのですが、なぜかこの文章はスルーしてしまったようです。
そしてほかの本を読んでから、映画を観たときにものすごく反応してしまいました。
Ces femmes que j'aimeは表題作を含め、3本のエッセイがはいっているのですが、私がいちばん好きなのは、かつての夫人が作家として有名になったときの一部始終を自虐的ともいえるくらいのユーモアでつづっているものです。
La Promesse de l'aubeの中で、彼にとってユーモアがいかに大事かということを書いたところがありましたが、合わせて読むととても面白いです。
彼の「女々しさ」(この言葉を書きながらわれわれがいかに無意識にかつ無神経に男女差にもどづく表現を日常生活において頻繁に使っているかを実感しているわけですが、ガリやヒューストンを読んでからほかの言い回しがないかを考える癖がつくようになってきました。とはいえ、ここでは敢えてw)が本当におかしいです。
あと、「先生」という呼び方は、ある種の記号というくらいに思ってあきらめていただけるとありがたいです。いまさらほかの呼び方をしてもしっくりこないし。
投稿: 大西 愛子 | 2009年6月14日 (日) 11時29分