ナショナリズムって何?――思想史の視座から――(2005/12/26)
「ナショナリズム」――Nationalism(英)、Nationalisme(仏)――という語はおそらく英国起源なのですが、政治関係の語彙がしばしばそうであるように、フランス語の中に入って特別な意味を帯び、その上で国際的に流通するようになったようです。
フランスである程度広く用いられ始めたのはどう早く見積もっても19世紀後半です。1874年刊行のラルース大辞典を見ると、当時から語義が二つあったことが分かります。自国や自民族を盲目的に賛美し、他国や他民族を侮蔑する態度、つまり偏狭な愛国心を意味する一方で、一九世紀ヨーロッパに勃興した、ネーションの独立ないし自律を求める運動をも指していたのです。
ところが、世紀末になると、また別の語義が付け加わりました。すなわち、ナショナルな価値と利益の首位性(プライマシー)という主張です。この三つ目のナショナリズムこそ、当時台頭したナショナリストたち――M・バレス、Ch・モーラス等――のイデオロギーでした。今日でもなお、「ナショナリズム」の概念はおおむねこのような三層構造を成しているように思われます。
以上のことを確認した上でまず言えるのは、ナショナル・アイデンティティの自覚、ネーションへの帰属意識、祖国への自発的な愛といったものを、ただちにナショナリズムと見做すわけにはいかないということでしょう。自国至上主義や排外主義(ショーヴィニズム)を伴わないパトリオティズムは、ナショナリズムと混同されるべきではありません。
次に、ここのところが重要なのですが、イデオロギーとしてのナショナリズムが至上の価値とするのは、「市民」という政治的単位を核とする普遍主義的構築物としての近代的ネーションではありません。そうではなくて、歴史的共同性と文化的特殊性によって定義されるエスニックな共同体か、もしくは、そのような閉じられた同一性の共同体として想像される場合の国家です。
ですから、ナショナリズムは実は、あらゆるネーションに付随するイデオロギーではないのです。それどころか、近代的・市民的ネーションは、本来の普遍主義とリベラリズムを国家の内外で堅持する限りにおいて、エスニシティを超え、ナショナリズムに立ちはだかるプロジェクトだとさえいえます。
さまざまな帝国の支配に対してネーションの独立を求めた歴史的ナショナリズムは、リベラルな観点から見ても正当な運動だったわけですけれども、その中にすでに民族的・文化的共同体主義のラディカル化という躓きの石が含まれていたと考えるべきなのかもしれません。
結局、今日、政治的レベルにおいてナショナリズムと呼ばれるべきは、一方では既存のネーションの利己的膨張主義であり、他方では、排他的な特殊性であるエスニーが「民族自決」の名においてそのまま主権国家たろうとする運動です。この後者は、民族と文化を超える普遍性の地平へと開かれた市民的ネーションが主権国家を創設するのとは似て非なる運動です。
最後に、精神的態度としては、ナショナリズムはどう定義されるのでしょうか。
自らの所属するグループ――国家、ネーション、エスニック集団など――の有限性を認めないのが、ナショナリストの究極の問題点です。これはとりもなおさず、自分のグループを「公」と見立て、その首位性(プライマシー)を主張し、それを超越する普遍的な価値や機関の存在をいっさい認めないということです。
その上でナショナリストは、彼が「公」と見做すグループに対する忠誠の名において、「私」の自由と利益を打ち捨てます。献身、自己犠牲というわけです。ところがそこには心理のカラクリがあって、彼は個人としては捨てたかに見えた自我を実はグループに投影していて、グループ(すなわち贋の「公」)のレベルで数十倍にして取り戻すのです。ナショナリズムに、個人として自我を主張できない気弱な人たちに癒しをもたらす面があるのは、基本的にこういうわけなのです。(初出:『KEIO SFC REVIEW』No.28、2006年03月01日発行)
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