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2017年5月 6日 (土)

日本的「一体感」の表と裏(2016/08/26)

 リオデジャネイロ五輪で、日本選手団は金12、銀8、銅21、合計で史上最多41個のメダルを獲ったという。まあ、万々歳だ。国別のメダル争いなんておかしいと、野暮なことは言うまい。「国を背負って」の競技会だからこそ、オリンピックやワールドカップがここまで人々を熱狂させるのである。

 実際、TVを通して日本中を「感動した!」の渦に巻き込んだのは、なかんずく競泳男子八百米リレーの銅、体操男子団体の金、卓球男子団体の銀、同女子団体の銅、陸上男子「四×百米」リレーの銀など、個人競技の国別団体戦だった。日本人の場合は特に、たとえ個の力で劣ってもチームが力を合わせる、というのが心の琴線に触れる。

 泣かせる台詞にも事欠かない。前回のロンドン五輪では、競泳男子八百米リレーで銅メダルを獲った松田丈志選手が、みんなで「(北島)康介さんを手ぶらで帰らせるわけにはいかない」と団結したと語った。今回も、卓球女子の十五歳、可愛らしくも頼もしい伊藤美誠選手が、「先輩を手ぶらで帰すわけにはいかない」と頑張ったと言ってのけた。

 やはり日本人は、よくも悪しくも、チームの一体感に幸福を感じる社会文化を生きている。そしてこの文化的特質が、日本人の競技スタイルにも――そして実は社会生活全般にも――大きな影響を及ぼしているように思われる。陸上の短距離リレーでのバトンタッチの見事さを見よ。選手レベル・組織レベルでの連携こそ、日本のお家芸なのだ。

 しかし、コインには必ず裏側がある。女子レスリングで四連覇を逃した吉田沙保里選手のことを思い出さずにはいられない。決勝に臨む時の彼女の蒼ざめた顔と、銀メダルに終わった時の涙。あの偉大なチャンピオンが、試合後のインタビューで、「日本選手の代表として金メダルを獲らないといけないところだったのに、ごめんなさい」と謝ったのである。

 惜敗した選手が、なぜ国民に謝らなければならないのか。日本国内に負けをなじるバカ者どもがいるからだろうか。むしろ、先述のような社会文化に馴染んでいる人が、疑似家族的グループ(選手団、壮行会、日本全体……)のトップに立たされたときに引き受けてしまう過剰な責任感のせいだろう。一体感を貴ぶ日本の文化は、反面で息苦しい。フレンドリーな団結は清々しいが、家族主義的な重圧をかけるような一体感はほどほどにした方がよい。

 そもそも、TVの前で観ているだけの国民が選手の殊勲を勝手に共有して、「同じ日本人として誇りに思う」のがおかしいのである。そんな誇りは、「虎の威を借る狐」の誇りでしかない。「同じ日本人として素直に喜ぶ」程度にしておきたい。

 吉田沙保里選手に、また笑顔で強く優しい姿を私たちに見せてください、といったメッセージを送るのも感心しない。それではまたしても、「私たち」という疑似家族的グループが吉田選手の心を縛ることになる。基本自由な、さらっとした個人に立ち帰ってもらう方が健康的だと私は思う。 【初出:『ビッグコミック・オリジナル』2016年9月20日発売号】

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