個別性への想像力――世界文学の効用――
故米原万里のノンフィクション『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(角川文庫)の中で、マリという名の語り手(≒著者)が次のような印象的な台詞を吐いている。
《だいたい抽象的な人類の一員なんて、この世にひとりも存在しないのよ。誰もが、地球上の具体的な場所で、具体的な時間に、何らかの民族に属する親たちから生まれ、具体的な文化や気候条件のもとで、何らかの言語を母語として育つ。どの人にも、まるで大海の一滴の水のように、母なる文化と言語が息づいている。母国の歴史が背後霊のように絡まりついている。それから完全に自由になることは不可能よ。そんな人、紙っぺらみたいにペラペラで面白くもない》(p.188)
同書に「解説」を添えた齋藤美奈子は、この一節を引用(ただし、 「どの人にも、まるで……」から「……絡まりついている」までの部分をおそらくは意図的に省略)し、21世紀の「私たちに求められているのもまた『具体的に生きるだれか』に対する想像力です。もちろんそれがナショナリズムにたてこもる方向ではなく、互いの多様な文化を認め合う方向でなければならないことは、いうまでもありません」と書いている。
OK、そのことは確かに「いうまでもない」。その「いうまでもない」ことを念押ししするだけでも、○○人とか、△△民族とかいうグループのアイデンティティを超える視点を持つこと自体を糾弾するような偏狭な精神が再びのさばり始めている今日、けっして無駄ではない。しかし、そこまではまあ、ふつうの良識の持ち主なら誰でも難なく了解するのだ。本当の問題はその先にある。あるいは、もう少し掘り下げたところにある。多様な条件と環境の中で「具体的に生きるだれか」への想像力とは、いったいどういう想像力なのか? 「互いの多様な文化を認め合う」とはつまり、諸文化の間の差異をどう扱うことなのか?
それは、「だれか」の内に息づいている「母なる文化と言語」や、「背後霊」のような「母国の歴史」を見出し、人間はそれぞれ異なる文化・言語・歴史を「母なる」ものとして背負っている以上、「抽象的な人類の一員」としての普遍性なんか嘘っぱちだと感得することだろうか。なるほど、そうすればわれわれは、さまざまな形をとる特殊性 ― 文化的・言語的・歴史的特殊性 ― のリアリティを実感することにはなるだろう。が、果たしてそれで、互いの特殊性を特殊性として、すなわちヴァリエーションとして「認め合う」ことができるだろうか。まして、「具体的に生きるだれか」に、すなわち具体的な個人としての他者に、思いを致すことができるだろうか。むしろ逆効果で、さまざまなレベルの集団的アイデンティティに「たてこもる」結果を招くのではないだろうか。
そもそも、多様性を云々するのは、同一と見なすものについてではないのか。同一性をベースにしなければ多様性など語ることもできないだろう。三毛猫、黒猫、シャム猫……、一概に猫といってもいろいろだ。多様だ。しかしこれは、いずれも猫だという了解の上での話である。猫、犬、馬、イルカ……、それぞれに特殊だ。この多様性も、哺乳類という同一性を認めるからこその多様性だ。いいかえれば、何らの特殊性も帯びていない無色透明の普遍が「この世に存在しない」のが事実であっても、われわれは普遍性を想定して初めて、特殊性を特殊性として捉え、多様性を認めることができるのだ。「抽象的な」レベルでの人間の普遍性をもし否定してしまえば、文化・言語・歴史の差異は絶対的なものとなり、「多様な文化を認め合う」どころか、異文化間ではコミュニケーションすら不可能となるだろう。
次に、個別性は特殊性ではない。ここにひとりの日本人がいるとしよう。日本文化、日本語、日本国の歴史、あるいは作られた神話でしかない日本人の民族性等々、そんなものをいくら積み重ねても、代替不可能な個としてその人間を捉えることはできない。性別、年齢、出身地、階層、職業、身長・体重、趣味、癖、挙げ句の果ては血液型!(笑)……いくら詳細な属性データを入力してもダメである。そういう「科学的」なやり方で最終的に掴まえる(=アイデンティティを定義する)ことができるのは物と、植物と、動物までである。人間も生物学的には動物だが、その個別性は間主観性の中で形成されていく意識の個別性なので、仮にある人物のクローンが存在したとしても、それはまた別の個となる。「具体的に生きるだれか」の個別性(=かけがえのなさ)は、どのような特殊性にも還元できない。
あまり長くなることは避けたいので、結論を急ぐ。「具体的に生きるだれか」への想像力とは、代替不可能な個としての他者への想像力であろう。それを持とうとすること自体がすでに、人間の普遍性への信頼を、あるいは少なくともそれへの賭けを含意している。普遍性を絵空事として退けるのではなく、むしろベースとして、より正確には地平線として他者と共有するときにこそ、われわれは「互いの多様な文化を認め合う」ことができる。個別性への想像力が生きる空間は、したがって、有意味な理念のレベルの普遍性と、事実のレベルの多様な与件であるところの特殊性の狭間に存する。
それはとりもなおさず、文学が、特に世界文学が可能にし、耕すコミュニケーションの空間であることに、誰が気づかずにいられようか。映画のように映像を与えてしまうのではなく、言葉によって人の想像力に働きかけ、時代的・地理的・言語文化的等々の隔たりを超えて個別具体的な作中人物への同化を促す文学作品の人間教育的効用は大きい。世界文学――学問としての文学ではなく、作品群としての文学――は、人間の個別性を探究するとともに擁護する普遍的コミュニケーションだといえるだろう。
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