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2017年5月 7日 (日)

組み体操の「現象学」(2017/01/09)

 十数年前から小・中・高校の運動会で組み体操が名物のようになり、どんどん巨大な構築へとエスカレートしていたこと、それにともなって頻発する事故が近年各種メディアで問題視されるようになっていたことは、皆さんご存知にちがいない。
 
 ところが、夙に組み体操の危険性を指摘して来た名古屋大学大学院准教授・内田良さんのブログ(YAHOO!ニュース、2016年12月30日)によれば、昨年は全国で事故が大幅に減少したそうだ。たとえば大阪では、一昨年との比較で、組み体操を実施する市立小学校が293校から201校に減り、負傷事故件数も71.4%の減となったらしい。それでも12名もの小学生が骨折したというのだから「恐れ入る」けれども……。名古屋市でも実施校が23.8%減少し、骨折事故も28件から3件に減ったという。

 この変化の理由はひとえに、一昨年まで「現場の裁量にまかせる」と傍観を続けていた教育行政――つまり文科省――がついに昨年、安全対策の要請に舵を切り、それを受けて各自治体が「ピラミッド」だの、「タワー」だのと呼ばれる組み体操の「段数制限(中止を含む)に取り組んだからに尽きる」と、内田准教授は説明してくれている。何はともあれ、事態が改善に向かったことは喜ばしい。運動会やその練習で続々ケガ人を出すなど、誰が見ても本末転倒だろう。

 だがここで、天邪鬼な私の脳裡に疑問符「?」が浮かび上がる。もし組み体操が安全に実施できるならばどうか? その場合、われわれ日本人はまた嬉々として組み体操を流行らせるのだろうか。

 あらゆるイデオロギーや価値観を脇に置き、組み体操なるものをひとつの現象として、すなわち、われわれの意識の前に立ち現れる経験的事実として、あるがままに見てみよう。すると一目瞭然、次の三点に気づく。
 
 ①組み体操はその外にいる者にしか全景の見えない見世物である。演技者は何も見ることができず、たとえ主体的に参加していても純然たる客体となる。

 ②組み体操の一体性の中では個人が埋没する。自由を奪われ、移動も、離脱も、身動きもできない。全体の一部品に還元され、個としては価値を認められない。

 ③組み体操の全景が示すのは大きな雛壇にも似たヒエラルキーである。不平等を組織原理とするこの階層秩序の中では、つねに下へ下へと重圧がかかる。

 こうした構築物の表象するものを全体主義だとまでは言わない。しかし少なくとも、かけがえのない〝個〟というものを知らぬコンパクトな集団、インドのカースト制共同体に代表される「全体論」(ホーリズム)的世界であることは間違いない。

 そこには個人が個人として存在しないのだから、喧伝される絆も、連帯も、実はありはしない。あるのは一体感だけである。組み体操は、蟻や蜜蜂の共同体のメタファーともいえる。たとえ仮に安全に実施できるとしても、人間教育にとって好ましいエクササイズだとは到底思えない。【初出:『ビッグコミック・オリジナル』2017年2月5日発売号】

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