「共感」の意味するもの
蒸し暑い夏の一日の終わり、俄に空がかき曇り、激しい雨が降ったとしよう。夕立の止んだ直後、嘘のように明るくなった空に目をやると、前方、東の空いっぱいに、大きな虹がかかっている。その美しさに息を呑む。一瞬、身じろぎできない。が、その直後、家族か、恋人か、友達か、とにかく近くにいる人を呼ばずにいられるだろうか。呼んで、虹を指ささずにいられるだろうか。ことほど左様にわれわれは、美しいものに遭遇すると、誰かといっしょにその感動を分かち合いたくなる。
ブティックで小物を気に入った女性が、「ねえ、ちょっと見て、可愛いわねぇ!」と連れに言うのも、インターネット上のビデオで、外野手イチローの超ファインプレーを目撃した男が、「やっぱ、イチローはすげぇ! ほら、これ見ろよ」とばかり、そばにいる友人のためにビデオを再生するのも、共感を求めるからこそであろう。もちろん、視覚の領域に限ったことではない。心に訴えてくる音楽の一小節をたとえばピアノで弾きながら、愛する人と共に耳を傾けることほど甘美なことがあるだろうか。小説や映画に感動した人も、感動が強ければ強いほど、その感動を自分だけに取っておくことはできず、人に会うたびに、その小説を、その映画を薦めてしまう。この衝動は、一般的な人付き合いを避けて、独りで自分の好きな世界に没入しているかに見えるオタクたちにまで共通している。個人主義の時代の申し子のような彼らにしても、実際には、これがカッコイイとか、あれはイケテルとか、趣味を同じくする仲間と語り合うのが大好きなのだ。
してみると、人間は意外に、自分だけ楽しければいいというケチなエゴイストではないのかもしれない。というより、そもそも、ケチなエゴイストではいることのできない存在なのかもしれない。自分独りでは今ひとつ楽しくなることができず、おのずから他者を意識し、他者と共感できるときに初めて、よろこびを満喫できるように出来ているのではないだろうか。もし人間がそのように構造化されているとすると、共感とは、個人的なよろこびに付け加わる「おまけ」であるどころか、むしろ人間的なよろこびの本質だということになる。共感という現象には、個人性や他者性を考える上での貴重なヒントが潜んでいるような気がする。
共感は、他者同士が何かをいっしょに、あるいは同じように感じることであるが、同情とは違う。同情の対象はもっぱら、苦しみや悲しみといった否定的な感情である。よろこびや幸福はいわば「同情に値しない」。それに対し、英語の「シンパシー」やフランス語の「サンパシー」はいざ知らず、日本語の「共感」は、それ自体として否定的な性質をもつ対象には向かわない。苦しみや悲しみにもまして、悪意や悪の快楽は「共感できない」ものの代表である。たしかに、「いじめ」に加担する者や、それを見物する者はいる。加担者や見物人は、ある種の加虐的な「よろこび」を共有するのだろう。しかし、本人ですら、そのような感情の共有を「共感」とは呼ぶまい。さらに、物欲や権力欲といった所有欲を満たして「よろこび」に浸る人はいるが、赤の他人がその種の「よろこび」を共にすることはけっしてない。第一、所有欲は独占的な欲望であって、共有や分有とは水と油の関係にある。
では、たとえばサッカースタジアムの応援席で、ナショナルチームや贔屓のチームの勝利を抱き合うようにしてよろこぶサポーターたちは、果たして共感し合っているのだろうか。ロックコンサートの会場で、同じリズムで手を振り、踊り、同じタイミングで歓声を上げるあのファンたちは、共感を体験しているといえるのだろうか。私の答えは、否である。なぜなら、彼らの間には始めから、他者同士としての距離感が存在していないのだから。スタジアムで同じ方向を向いて一斉に応援し始めたときから、サポーターたちは個人の集まりであることをやめ、集団的な個になる。そうである以上、応援したチームの勝利のよろこびも、はたまた敗北の悲しみも、共有するのは当たり前ではないか。あの共同性は、他者性を前提としながらそれを超えていく共感とは似て非なるものだ。ロックコンサート会場で人びとが一体感に酔うとき、音と光と色と人いきれの洪水の中で個人は消え、したがって他者性も問題にならない。全体主義国家が得意とする集団主義のマスゲームにも劣らぬあの満場一致を、共感の光景と混同してはならない。
まとめよう。共感とは、あくまで別々の個人として存在する他者同士が、個人やグループの私利私欲とは無縁の普遍的価値――美しさや、正しいことの美しさ――との出会いによってもたらされる感動を分かち合うコミュニケーションである。このコミュニケーションなしに、いったい人生のよろこびがあるだろうか。個人を埋没させる集団の一体感とはまったく別物であるだけに、共感という現象は、われわれに今日的個人主義の再考を促す。われわれは、物質的な生存のために相互依存しているというだけにとどまらず、主体としての意識という精神的な次元でも、存外、ばらばらの自足的な個、完結した個ではないのではないだろうか。【2008/07/24 (財)修養団『向上』から依頼を受けて執筆。】
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初めまして。
新聞「赤旗」文化部の西沢と申します。
このコメント欄に書くのはふさわしくないとは思いながら、ネット上にあった先生のメールアドレスに送ったところ、うまく届かなかったものですから、コメントに記入させていただきました。
突然のお願いながら、先生にエッセーのご執筆を頂けたらと思いメールさせていただきました。
以前、先生のブログなどを拝見し、また先日は、報道ステーションにご出演されたのを拝見いたしました。
そこで、今の日本の政治、民主主義を考える、あるいは民主主義そのもののあり方を考えるヒントとなるような、〝政治的エッセー〟と言いますか、〝思想的、思索的エッセー〟というものをお願いできたらと願っております。
字数は 1000字
原稿料は大変に些少で心苦しい限りながら 1回 8000円でございます。
締め切りはご都合を伺ってご相談できたらと思いますが、7月いっぱい、それでは難しいようでしたら、8月いっぱいではいかがでしょうか。
文化面での掲載になります。
大変にご多用とは存じますが、なにとぞご検討いただけますようお願い申し上げます。
西沢亨子
赤旗編集局 学術・文化部
〒151-8586
東京都渋谷区千駄ヶ谷4-26-7
TEL 03(3350)9479
FAX 03(3350)9558
携帯 090(2227)0149
投稿: 西沢亨子 | 2017年6月28日 (水) 14時26分