「官僚のクズ」?(2017/6/15)
前川喜平・前文科省事務次官が、加計学園問題関連のいわゆる「総理のご意向」文書について、「あったものをなかったとは言えない」として記者会見に臨んだのは本年5月25日であった。以来、官房長官や読売新聞に何を仄めかされようとも怯むことなく、前川さんは一市民として、気負うこともなく表現の自由を行使している。
彼が6月1日のテレビ朝日系『報道ステーション』で、次のように語ったことを知る人は少なくないだろう。
《私ね、座右の銘が「面従腹背」なんですよ。あの、これは普通は悪い意味で使われるんだけど、役人の心得としてある程度の面従腹背はどうしても必要だし、この面従腹背の技術というか資質はやっぱり持つ必要がある》云々。
「面従腹背」とは、「表面では服従するように見せかけて、内心では反抗していること」(『新明解国語辞典』第六版)だから、いうまでもなく不正直な態度である。前川さん自身、「普通は悪い意味で使われる」と断っている。彼は頗る自覚的に、あえてこの四字熟語に矜持を託して38年間の役人人生を生きたのだろう。
ケシカラン(!)と怒る人がいるだろうことは想像に難くない。案の定、かつて小泉純一郎内閣の竹中平蔵経済財政担当相に秘書官として仕えた元通産官僚の岸博幸氏は、6月13日付け産経新聞紙上のインタビューで言い放った。
《前川氏の座右の銘は「面従腹背」だそうだが、論外だ。そんなことを正々堂々という官僚なんて官僚のクズだと思う。一時期とはいえトップを務めた人間がそんなことを言えば、文科省がそういう組織に見える。文科省の後輩たちに迷惑をかけると思わないのか。》
この発言の、いかにも新自由主義者らしい単純さ、薄っぺらさはどうだ。岸博幸氏は今では慶大大学院「メディアデザイン研究科」の教授だというが、未だに人間存在の重層性が分かっていない。これでは、前川氏の言葉の含蓄も、行動の厚みも理解できるわけがない。
いわゆる「公人」であれ、「私人」であれ、人間には公的な次元と私的な次元がある。組織に属する面と個人の領分がある。公務員とて、公務員である前に人間なのである。人間固有の意識の自由を放棄する自己欺瞞に逃げるのでない限り、個人としての良心と組織人としての規律遵守の間の乖離はときに避けがたい。このジレンマをごまかさずに引き受け、人間を降りる(=魂まで譲る)ことなしに組織の良きメンバーたらんとする者に、一定の許容範囲の中で「面従腹背」の緊張感を維持する以外にどんな身の処し方があり得ようか。
竹中平蔵氏の元秘書官が何と言おうと、「面従腹背」の器量を持つ官僚が「官僚のクズ」なのではない。そうではなくて、嬉しければ尻尾を振り、怖くなれば尻尾を巻く犬さながらに正直で、裏表もなく、実は個人でもあることを忘れた組織の一員として、人格をまるごと上司に捧げてしまうような薄っぺらな官僚こそが、「官僚のクズ」なのである。【初出:『ビッグコミック・オリジナル』2017年7月20日発売号】
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