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<title>堀茂樹のブログ、あるいは不敬の義務</title>
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<item rdf:about="http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/08/post-c0b9.html">
<title>私の憲法９条改正案（結論のみ）</title>
<link>http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/08/post-c0b9.html</link>
<description>　以下に試みるのは、現行の日本国憲法の改正案であって、現行憲法を別の憲法に置き換える案ではない。

　言葉の本来の意味における「改正」の案は、どんな案であっても、日本国憲法の同一性（アイデンティティ）を支える主要原則――①国民主権、②基本的人権の尊重、③平和主義、④国際協調主義――を揺るがせることなく、むしろこれらの主要原則をよりよく条文に反映させることを目指す。

　つまり、その名に値する憲法改正案は必ず「護憲的改正案」であり、それ以外のものは「壊憲」を前提とする新憲法案なのである。
　
■第１項は維持する。但し、条文を（例えば）以下のように修正する。
■第２項を削除して、（例えば）以下のよ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>　以下に試みるのは、現行の日本国憲法の改正案であって、現行憲法を別の憲法に置き換える案ではない。</p>

<p>　言葉の本来の意味における「改正」の案は、どんな案であっても、日本国憲法の同一性（アイデンティティ）を支える主要原則――①国民主権、②基本的人権の尊重、③平和主義、④国際協調主義――を揺るがせることなく、むしろこれらの主要原則をよりよく条文に反映させることを目指す。</p>

<p>　つまり、その名に値する憲法改正案は必ず「護憲的改正案」であり、それ以外のものは「壊憲」を前提とする新憲法案なのである。<br />
　<br />
■第１項は維持する。但し、条文を（例えば）以下のように修正する。<br />
■第２項を削除して、（例えば）以下のように改める。<br />
■以下のような条文の第３項を付け加える。</p>

<p>第九条</p>

<p>（１）〔国権の発動としての戦争の否定〕</p>

<p>　日本国民は、公正な法的秩序の確立による世界平和を希求し、国権の発動たる戦争を許さない。武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、これを行わない。</p>

<p>（２）〔自衛権、および自衛権行使のための戦力〕</p>

<p>　①国外からの急迫かつ不正の侵害、及びそのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至る恐れのある事態等、我が国が、我が国周辺の地域において我が国の平和及び安全に重大な影響を与える事態に直面した場合に限り、我が国の独立を維持して国民の安全を確保するためにやむを得ず行う必要最小限の実力行使は、我が国単独の行為であれ、同盟国との共同行為であれ、正当な自衛権の行使であるがゆえに妨げられない。それ以外の状況においては、我が国は武力行使を行わない。</p>

<p>　②上記の自衛権を行使するために必要な最小限度の戦力を保有する。なお、この戦力を構成する組織には、７６条２項の規定にかかわらず軍法会議を設ける。</p>

<p>（３）〔積極的国際協力〕</p>

<p>　国際連合が国際連合憲章に則っておこなう集団安全保障の活動には、原則として、武力を含むあらゆる手段を通じて貢献する。このために必要かつ適切な戦力を保有する。なお、この戦力を構成する組織には、７６条２項の規定にかかわらず軍法会議を設ける。</p>]]></content:encoded>



<dc:creator>Eleutheria</dc:creator>
<dc:date>2017-08-27T00:47:40+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/08/2017615-9787.html">
<title>「官僚のクズ」？(2017/6/15）</title>
<link>http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/08/2017615-9787.html</link>
<description>　前川喜平・前文科省事務次官が、加計学園問題関連のいわゆる「総理のご意向」文書について、「あったものをなかったとは言えない」として記者会見に臨んだのは本年５月25日であった。以来、官房長官や読売新聞に何を仄めかされようとも怯むことなく、前川さんは一市民として、気負うこともなく表現の自由を行使している。

　彼が６月１日のテレビ朝日系『報道ステーション』で、次のように語ったことを知る人は少なくないだろう。

 《私ね、座右の銘が「面従腹背」なんですよ。あの、これは普通は悪い意味で使われるんだけど、役人の心得としてある程度の面従腹背はどうしても必要だし、この面従腹背の技術というか資質はやっぱり持つ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>　前川喜平・前文科省事務次官が、加計学園問題関連のいわゆる「総理のご意向」文書について、「あったものをなかったとは言えない」として記者会見に臨んだのは本年５月25日であった。以来、官房長官や読売新聞に何を仄めかされようとも怯むことなく、前川さんは一市民として、気負うこともなく表現の自由を行使している。</p>

<p>　彼が６月１日のテレビ朝日系『報道ステーション』で、次のように語ったことを知る人は少なくないだろう。</p>

<p> 《私ね、座右の銘が「面従腹背」なんですよ。あの、これは普通は悪い意味で使われるんだけど、役人の心得としてある程度の面従腹背はどうしても必要だし、この面従腹背の技術というか資質はやっぱり持つ必要がある》云々。</p>

<p>　「面従腹背」とは、「表面では服従するように見せかけて、内心では反抗していること」（『新明解国語辞典』第六版）だから、いうまでもなく<strong>不正直</strong>な態度である。前川さん自身、「普通は悪い意味で使われる」と断っている。彼は頗る自覚的に、あえてこの四字熟語に矜持を託して38年間の役人人生を生きたのだろう。</p>

<p>　ケシカラン（！）と怒る人がいるだろうことは想像に難くない。案の定、かつて小泉純一郎内閣の竹中平蔵経済財政担当相に秘書官として仕えた元通産官僚の岸博幸氏は、６月１３日付け産経新聞紙上のインタビューで言い放った。</p>

<p> 《前川氏の座右の銘は「面従腹背」だそうだが、論外だ。そんなことを正々堂々という官僚なんて官僚のクズだと思う。一時期とはいえトップを務めた人間がそんなことを言えば、文科省がそういう組織に見える。文科省の後輩たちに迷惑をかけると思わないのか。》</p>

<p>　この発言の、いかにも新自由主義者らしい単純さ、薄っぺらさはどうだ。岸博幸氏は今では慶大大学院「メディアデザイン研究科」の教授だというが、未だに人間存在の重層性が分かっていない。これでは、前川氏の言葉の含蓄も、行動の厚みも理解できるわけがない。</p>

<p>　いわゆる「公人」であれ、「私人」であれ、人間には公的な次元と私的な次元がある。組織に属する面と個人の領分がある。公務員とて、公務員である前に人間なのである。人間固有の意識の自由を放棄する自己欺瞞に逃げるのでない限り、個人としての良心と組織人としての規律遵守の間の乖離はときに避けがたい。このジレンマをごまかさずに引き受け、人間を降りる（＝魂まで譲る）ことなしに組織の良きメンバーたらんとする者に、一定の許容範囲の中で「面従腹背」の緊張感を維持する以外にどんな身の処し方があり得ようか。</p>

<p>　竹中平蔵氏の元秘書官が何と言おうと、「面従腹背」の器量を持つ官僚が「官僚のクズ」なのではない。そうではなくて、嬉しければ尻尾を振り、怖くなれば尻尾を巻く犬さながらに<strong>正直</strong>で、裏表もなく、実は個人で<strong>も</strong>あることを忘れた組織の一員として、人格をまるごと上司に捧げてしまうような薄っぺらな官僚こそが、「官僚のクズ」なのである。【初出：『ビッグコミック・オリジナル』2017年７月20日発売号】</p>]]></content:encoded>



<dc:creator>Eleutheria</dc:creator>
<dc:date>2017-08-11T18:56:54+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/06/post-c41f.html">
<title>「共感」の意味するもの</title>
<link>http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/06/post-c41f.html</link>
<description>　蒸し暑い夏の一日の終わり、俄に空がかき曇り、激しい雨が降ったとしよう。夕立の止んだ直後、嘘のように明るくなった空に目をやると、前方、東の空いっぱいに、大きな虹がかかっている。その美しさに息を呑む。一瞬、身じろぎできない。が、その直後、家族か、恋人か、友達か、とにかく近くにいる人を呼ばずにいられるだろうか。呼んで、虹を指ささずにいられるだろうか。ことほど左様にわれわれは、美しいものに遭遇すると、誰かといっしょにその感動を分かち合いたくなる。

　ブティックで小物を気に入った女性が、「ねえ、ちょっと見て、可愛いわねぇ！」と連れに言うのも、インターネット上のビデオで、外野手イチローの超ファインプレ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>　蒸し暑い夏の一日の終わり、俄に空がかき曇り、激しい雨が降ったとしよう。夕立の止んだ直後、嘘のように明るくなった空に目をやると、前方、東の空いっぱいに、大きな虹がかかっている。その美しさに息を呑む。一瞬、身じろぎできない。が、その直後、家族か、恋人か、友達か、とにかく近くにいる人を呼ばずにいられるだろうか。呼んで、虹を指ささずにいられるだろうか。ことほど左様にわれわれは、美しいものに遭遇すると、誰かといっしょにその感動を分かち合いたくなる。</p>

<p>　ブティックで小物を気に入った女性が、「ねえ、ちょっと見て、可愛いわねぇ！」と連れに言うのも、インターネット上のビデオで、外野手イチローの超ファインプレーを目撃した男が、「やっぱ、イチローはすげぇ！　ほら、これ見ろよ」とばかり、そばにいる友人のためにビデオを再生するのも、共感を求めるからこそであろう。もちろん、視覚の領域に限ったことではない。心に訴えてくる音楽の一小節をたとえばピアノで弾きながら、愛する人と共に耳を傾けることほど甘美なことがあるだろうか。小説や映画に感動した人も、感動が強ければ強いほど、その感動を自分だけに取っておくことはできず、人に会うたびに、その小説を、その映画を薦めてしまう。この衝動は、一般的な人付き合いを避けて、独りで自分の好きな世界に没入しているかに見えるオタクたちにまで共通している。個人主義の時代の申し子のような彼らにしても、実際には、これがカッコイイとか、あれはイケテルとか、趣味を同じくする仲間と語り合うのが大好きなのだ。</p>

<p>　してみると、人間は意外に、自分だけ楽しければいいというケチなエゴイストではないのかもしれない。というより、そもそも、ケチなエゴイストではいることのできない存在なのかもしれない。自分独りでは今ひとつ楽しくなることができず、おのずから他者を意識し、他者と共感できるときに初めて、よろこびを満喫できるように出来ているのではないだろうか。もし人間がそのように構造化されているとすると、共感とは、個人的なよろこびに付け加わる「おまけ」であるどころか、むしろ人間的なよろこびの本質だということになる。共感という現象には、個人性や他者性を考える上での貴重なヒントが潜んでいるような気がする。<br />
　<br />
　共感は、他者同士が何かをいっしょに、あるいは同じように感じることであるが、同情とは違う。同情の対象はもっぱら、苦しみや悲しみといった否定的な感情である。よろこびや幸福はいわば「同情に値しない」。それに対し、英語の「シンパシー」やフランス語の「サンパシー」はいざ知らず、日本語の「共感」は、それ自体として否定的な性質をもつ対象には向かわない。苦しみや悲しみにもまして、悪意や悪の快楽は「共感できない」ものの代表である。たしかに、「いじめ」に加担する者や、それを見物する者はいる。加担者や見物人は、ある種の加虐的な「よろこび」を共有するのだろう。しかし、本人ですら、そのような感情の共有を「共感」とは呼ぶまい。さらに、物欲や権力欲といった所有欲を満たして「よろこび」に浸る人はいるが、赤の他人がその種の「よろこび」を共にすることはけっしてない。第一、所有欲は独占的な欲望であって、共有や分有とは水と油の関係にある。</p>

<p>　では、たとえばサッカースタジアムの応援席で、ナショナルチームや贔屓のチームの勝利を抱き合うようにしてよろこぶサポーターたちは、果たして共感し合っているのだろうか。ロックコンサートの会場で、同じリズムで手を振り、踊り、同じタイミングで歓声を上げるあのファンたちは、共感を体験しているといえるのだろうか。私の答えは、否である。なぜなら、彼らの間には始めから、他者同士としての距離感が存在していないのだから。スタジアムで同じ方向を向いて一斉に応援し始めたときから、サポーターたちは個人の集まりであることをやめ、集団的な個になる。そうである以上、応援したチームの勝利のよろこびも、はたまた敗北の悲しみも、共有するのは当たり前ではないか。あの共同性は、他者性を前提としながらそれを超えていく共感とは似て非なるものだ。ロックコンサート会場で人びとが一体感に酔うとき、音と光と色と人いきれの洪水の中で個人は消え、したがって他者性も問題にならない。全体主義国家が得意とする集団主義のマスゲームにも劣らぬあの満場一致を、共感の光景と混同してはならない。</p>

<p>　まとめよう。共感とは、あくまで別々の個人として存在する他者同士が、個人やグループの私利私欲とは無縁の普遍的価値――美しさや、正しいことの美しさ――との出会いによってもたらされる感動を分かち合うコミュニケーションである。このコミュニケーションなしに、いったい人生のよろこびがあるだろうか。個人を埋没させる集団の一体感とはまったく別物であるだけに、共感という現象は、われわれに今日的個人主義の再考を促す。われわれは、物質的な生存のために相互依存しているというだけにとどまらず、主体としての意識という精神的な次元でも、存外、ばらばらの自足的な個、完結した個ではないのではないだろうか。【2008/07/24　（財）修養団『向上』から依頼を受けて執筆。】</p>]]></content:encoded>



<dc:creator>Eleutheria</dc:creator>
<dc:date>2017-06-07T03:21:23+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/05/sfc-f1cf.html">
<title>退任の挨拶（2017/03/31記す。慶應SFC教職員向けメルマガに掲載）</title>
<link>http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/05/sfc-f1cf.html</link>
<description>　ＳＦＣで１７年間教鞭をとらせていただきました。じつに爽快な職場でした。ひとえに同僚教職員の皆様方のお蔭であり、心から感謝しております。

　在任中、私は僭越にもＳＦＣの運営に五月蝿く「文句を言う」タイプでありましたから(笑)、最後まで問題提起を続けて立ち去ろうと存じます。

　昔、日本の大学は通俗的意味で「封建的」でした。教員同士、教員と職員、そして教員と学生の関係も「権威主義的」でした。今日、わがＳＦＣを筆頭に、大学はそうしたメンタリティからかなり脱却しました。大学の核である「知」というものの普遍性に鑑みて、頗るポジティブな進歩です。

　ところが今、日本の大学はグローバル資本主義の自由市...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>　ＳＦＣで１７年間教鞭をとらせていただきました。じつに爽快な職場でした。ひとえに同僚教職員の皆様方のお蔭であり、心から感謝しております。</p>

<p>　在任中、私は僭越にもＳＦＣの運営に五月蝿く「文句を言う」タイプでありましたから(笑)、最後まで問題提起を続けて立ち去ろうと存じます。</p>

<p>　昔、日本の大学は通俗的意味で「封建的」でした。教員同士、教員と職員、そして教員と学生の関係も「権威主義的」でした。今日、わがＳＦＣを筆頭に、大学はそうしたメンタリティからかなり脱却しました。大学の核である「知」というものの普遍性に鑑みて、頗るポジティブな進歩です。</p>

<p>　ところが今、日本の大学はグローバル資本主義の自由市場に似てきていないでしょうか。利益を生み出すという意味で「役に立つ」物が価値だという世俗の価値観と一線を画して、役に立とうと立つまいと（あるいは有害であっても）真実こそ価値であるとする学府固有の価値観を見失い、研究も教育も商品として捉え、学生を消費者のように遇し、授業を（顧客満足度調査の対象となる）商品のように扱っていないでしょうか。</p>

<p>　勿論、それで何が悪いのか、という声も聞こえてきます。しかし、大学が象牙の塔でなくなったのはよいとして、だからといって世俗との質的不連続性を消し去り、境界線を失い、シームレスに繋がれればＯＫとするのは自己喪失にほかならないでしょう。早い話、それならサッサと看板を降ろし、世俗社会に溶解してしまうほうが潔いわけです。</p>

<p>　大学が社会と連携するのは大いに結構なのですが、世俗の価値観に鋭く対立しながらの連携でなければ、そんな連携から（資本主義のダイナミズムである）「創造的破壊」が発生することはありますまい。</p>

<p>堀　茂樹<br />
（初出：『SFC教職員向けNEWSレター　パンテオン(メールマガジン)』2017年４月）</p>]]></content:encoded>



<dc:creator>Eleutheria</dc:creator>
<dc:date>2017-05-30T04:43:29+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/05/post-7263.html">
<title>安倍首相の「加憲」案は失投である。</title>
<link>http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/05/post-7263.html</link>
<description>　安倍首相が最近、「２０２０年を新しい憲法が施行される年にしたい」と述べ、憲法９条の１項と２項にはまったく手をつけずに、第３項に自衛隊の合憲性を明記する「加憲」案を表明しましたね。たとえばＪ-ＣＡＳＴニュースは次のように報じました。

　《安倍氏は憲法記念日にあたる5月3日の読売新聞朝刊のインタビューや、同日に開かれた改憲派の集会に寄せたビデオメッセージで、（1）2020年までに憲法を改正し施行を目指す　（2）現行の憲法9条1項と2項は維持し、新設する3項で自衛隊の根拠規定を設ける、ことなどを表明。野党時代の12年に自民党が作成した改正草案には「こだわるべきではない」としており、従来と比べて「...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>　安倍首相が最近、「２０２０年を新しい憲法が施行される年にしたい」と述べ、憲法９条の１項と２項にはまったく手をつけずに、第３項に自衛隊の合憲性を明記する「加憲」案を表明しましたね。たとえばＪ-ＣＡＳＴニュースは次のように報じました。</p>

<p>　《安倍氏は憲法記念日にあたる5月3日の読売新聞朝刊のインタビューや、同日に開かれた改憲派の集会に寄せたビデオメッセージで、（1）2020年までに憲法を改正し施行を目指す　（2）現行の憲法9条1項と2項は維持し、新設する3項で自衛隊の根拠規定を設ける、ことなどを表明。野党時代の12年に自民党が作成した改正草案には「こだわるべきではない」としており、従来と比べて「ハードルの低さ」を強調した。》（<a href="http://www.j-cast.com/2017/05/08297341.html?p=all">https://www.j-cast.com/2017/05/08297341.html?p=all</a>）</p>

<p>　唐突といえば唐突で、この首相がとにかく憲法に変更を加えたいというだけで、定見を持っていないのではないかとも疑われますが、しかし、こうして先手を打たれた護憲派は、またぞろ対応に戸惑っているようです。　<br />
　<br />
　民進党などからは、憲法改正の発議をするのは立法府・国会なのに、現行憲法遵守義務のある行政府の長たる首相が改憲提案をするのはケシカラン、などという反発が出ていると聞き及びました。このような反発を示す人は、議院内閣制では与党と内閣が一体であることを認識していないのはないでしょうか？憲法を遵守することと、その内容について改定を提案することとは何ら矛盾しません。<br />
　<br />
　また、朝日新聞などは、2017年５月９日付けの社説に、「首相のこの考えは、平和国家としての日本の形を変えかねない。容認できない」などと書きました（<a href="http://digital.asahi.com/articles/DA3S12927391.html">http://digital.asahi.com/articles/DA3S12927391.html</a>）。しかし、今日の日本国民の大多数は、自衛隊の合憲性を明文化すること自体を、「平和国家としての日本のあり方を歪める」行為などとは考えないでしょう。<br />
　<br />
　今日、日本の憲法学者のうち、自衛隊の存在を違憲と判断している学者のほうが多いことはよく知られています（<a href="http://togetter.com/li/851500">https://togetter.com/li/851500</a>）が、学説の正しさは多数決で決まるものではないでしょう。また、それを合憲とする学者のうちには、首都大学東京法学系教授・木村草太氏のように憲法１３条を合憲性の根拠に持ち出す（<a href="http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49041">http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49041</a>）ケースが目立ち、従来の内閣法制局の解釈もそれを踏襲していたとも聞きますが、これはシンプルさを欠くねじ曲がった主張で、こじつけの誹りを免れないと思います。</p>

<p>　私はといえば、１３条など持ち出さなくても、究極的には自衛隊の存在を合憲と見なせると考えています。なぜなら、憲法９条が放棄を宣言しているのは「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」だからです。さらに、９条２項の冒頭には、「前項の目的を達するため」という文言が置かれている（いわゆる「芦田修正」）からです。つまり、自然法主義に立てば、憲法もまた実定法として自然権を尊重しなければならないからして、どんな憲法も、日本人が人間として生まれながらに有する自然権として自衛権（＝正当防衛権）を奪うことはできない筈であり、そうだとすれば、日本人の国家が自衛（＝正当防衛）のために保有する戦力（＝自衛隊）は違憲ではないと言えるのです。</p>

<p>　但し、もし前述の立論がただちに自明ではないとすれば、憲法９条に第３項を設け、そこに、日本国も自衛のための戦力は保有することができると明文で書き加える「加憲」を、一つの選択肢として積極的に考慮してよろしいでしょう。たとえば、自由党代表の小沢一郎氏などはかねてよりこのような立場を表明してきました。<br />
　<br />
　それなら、憲法９条に関するこのたびの安倍首相の提案は、戦術的な下心がどうであれ、小沢一郎氏の持論や、それを良しとする私などの考え方に合致するものでしょうか？　答えは否です。安倍首相の「加憲」提案は、実は似て非なるものです。そして、あえて言えば、この「加憲」提案を打ち出したのは明らかに安倍首相の失投です。このボール、野党側は的確に打ち返すべきです。<br />
　<br />
　打ち返し方は以下のとおりです。<br />
　<br />
①	憲法９条に第３項を設けて、そこで自衛隊の合憲性を明文化するのは王道である。</p>

<p>②	ただし、この王道を、現行憲法がかつてのケロッグ＝ブリアンの「パリ不戦条約」から受け継いでいる平和主義原則に整合させるには、旧・周辺事態法の地理的限定を超える自衛隊の海外派兵を集団的自衛権の名で合法化した（違憲立法の）安倍安保法制の廃止が必須である。</p>

<p>③	野党は、９条に第３項を加えて自衛隊の合憲性を明文化しようという安倍首相の提案に対し、その「加憲」が９条の第１項と矛盾しないためには、旧・周辺事態法の限定を超える自衛隊の海外派兵を合法化した2015年の「平和安全法制」（＝安倍安保法制）の廃止が必要不可欠の条件となることを強調し、その条件が満たされるならば賛成する、という態度を採用すればよい。</p>

<p>④	そうすれば、安倍安保法制が、自衛隊の存在の合憲性と根本的に矛盾する事実を浮かび上がらせることができる。</p>

<p>⑤	なお、国連の集団安全保障は、集団的自衛権の行使とはまったく別物なので、その集団安全保障には武力貢献もできるよう、現行のPKO法を改正すると同時に、自衛隊、もしくは別の部隊の用意も整えるべきである。</p>

<p>　こういうわけで、このたびの安倍首相の「加憲」提案は、メディアで「くせ球」だとか言われていますが、本人は手品のつもりでも、完全な失投なのです。<br />
　<br />
　野党や在野の反安倍言論人の多くが、こんな失投のボールすら打ち返せず、「安倍政権下での改憲にはどんな改憲でも絶対に反対！」などという教条主義に逃げてしまっているのは、情けないかぎりです。【2017/05/16記す。】</p>]]></content:encoded>



<dc:creator>Eleutheria</dc:creator>
<dc:date>2017-05-16T20:50:15+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/05/2003214-f872.html">
<title>国連安全保障理事会2003/2/14におけるドミニク・ド・ヴィルパンの演説</title>
<link>http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/05/2003214-f872.html</link>
<description>国連安全保障理事会2003.2.14における
フランス共和国外相ドミニク・ド・ヴィルパンの演説（拙訳）
 ― VILLEPIN, Dominique de, et al. : Un Autre monde, L’Herne, 2003.より

　2003年2月5日の安全保障理事会で、米国国務長官パウエル氏は、イラクのフセイン政権とアルカイダの間に連携があるかのような報告をおこなった。それでも理事会の過半数と国際世論は米国の見解に同調していなかった。しかし、その後もイラク政府に対する米国の圧力はますます強まっていた。ブッシュ米国大統領は、特に2月6日には「ゲームは終わった」とまで言明した。

　...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>国連安全保障理事会2003.2.14における<br />
フランス共和国外相ドミニク・ド・ヴィルパンの演説（拙訳）<br />
 ― VILLEPIN, Dominique de, et al. : <em>Un Autre monde</em>, L’Herne, 2003.より</p>

<p>　<em>2003年2月5日の安全保障理事会で、米国国務長官パウエル氏は、イラクのフセイン政権とアルカイダの間に連携があるかのような報告をおこなった。それでも理事会の過半数と国際世論は米国の見解に同調していなかった。しかし、その後もイラク政府に対する米国の圧力はますます強まっていた。ブッシュ米国大統領は、特に2月6日には「ゲームは終わった」とまで言明した。</p>

<p>　米国とイギリスが軍事介入の準備を進め、武力行使を認める決議案の作成を開始する一方で、フランスは、ドイツおよびロシアとともに、軍事介入がもたらしかねない影響に比して米国側の論拠が薄弱であるとして、安保理の過半数以上の国々の説得に努めていた。3カ国はいずれも、査察の継続によってイラクの武装解除を平和裡に実行しようと訴えていた。特に、フランスが具体的なイラク査察強化案を書面で提示すると、米国ではフランスの外交姿勢がますます問題視されるようになった。</p>

<p>　2003年2月14日、イラク査察の責任者であるブリクス、エルバラダイの両氏が、査察の進捗状況について国連安全保障理事会の場で2回目の報告をおこなった。両氏は、イラクの協力が手続きと内容の両面で進展したと述べた。高まる国際的圧力の下、イラクは査察団へのより実質的な協力姿勢へと傾いたようであった。国連監視検証査察委員会（ＵＮＭＯＶＩＣ）はイラク人科学者から立会人抜きで聴取をおこなうことができたし、2月10日にはフセイン政権が偵察機の領空内飛行を許可していたのである。なお、ブリクス氏は、パウエル国務長官が2月5日に提示した情報に対しても距離を置く発言をした。</p>

<p>　その日、次に発言したのが、フランス共和国のドミニク・ド・ヴィルパン外務大臣（当時）であった。<br />
</em></p>

<p>＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊＊<br />
　議長、事務総長、各国の大臣ならびに大使の皆さん。</p>

<p>　はじめに、イラクにおける査察の進展状況を報告してくださったブリクス、エルバラダイの両氏に感謝いたします。フランスが両氏を信頼し、その任務遂行に全面的な支援を惜しまないことをこの場で改めて表明いたします。</p>

<p>　ご承知のとおり、フランスはイラク問題発生当初より安全保障理事会の結束を重視してまいりました。安保理がその結束を保つことができるかどうかは今日、これから述べる二つの重要な要素にかかっております。</p>

<p>-	われわれが共同で達成しようとしている目的は、イラクをして実質的な武装解除に到らしめることです。この目的に向かって、必ずや結果を出さねばなりません。</p>

<p>-	われわれは皆一致してこの目的を達成しようとしているのですから、そのこと自体に疑念を差し挟むことは慎みましょう。われわれが共同で担っている重大な責務を思えば、他国の下心を疑ったり、意図を勘ぐったりしている場合ではないのです。事柄を明瞭にしましょう。この安保理に、サダム・フセインと彼の体制をいささかなりとも大目に見ようとしているような国は存在しません。</p>

<p>　われわれは国連決議1441を全会一致で採択し、フランスの提唱した二段階方式を採ることに合意しました。二段階方式とは、査察による武装解除という方法を選択し、この方法が功を奏さない場合には、安保理が武力行使を含むあらゆる選択肢を改めて検討するという内容です。したがって、査察が失敗に終わった場合、そしてその場合にのみ、第二の決議の採択が正当化されるのです。<br />
　<br />
　今日われわれの眼前にしているのは単純な問題です。正直に自らの胸に問うて、公正な判断に基づいて査察による武装解除が今や完全に行き詰まっていると判断するのか。それとも、国連決議1441によって開かれた査察の可能性がまだ十全には活用されていないと考えるのか、ということです。<br />
　<br />
　この問題に対してフランスは次の二点を確信しています。</p>

<p>-	一つは、査察がまだ十全に実施されたわけではなく、査察を継続することで、イラクの武装解除という至上命令に有効な答えを与えることができるということ。</p>

<p>-	もう一つは、武力の使用は、それが人々と地域と国際的安定に及ぼす深刻な影響に鑑みて、最後の手段としてしか考慮し得ないということです。<br />
　<br />
　ところで先程、ブリクス、エルバラダイ両氏はどのような報告をされたでしょうか。両氏は、査察は成果を上げていると述べられた。もちろん、われわれは現在の成果以上のものを求めるし、今後も共同でフセイン政権に圧力をかけ、さらなる成果を引き出していくのです。しかしながら、とにもかくにも、査察が現に成果を上げているのです。<br />
　<br />
　国連監視検証査察委員会（ＵＮＭＯＶＩＣ）委員長と国際原子力委員会（ＩＡＥＡ）事務局長は、前回1月27日の安保理への報告の中で、査察の進展が望まれる領域をいくつか具体的に挙げました。そしてそれらの領域の多くにおいて、このたび査察の著しい進展が認められたのです。</p>

<p>-	生物化学兵器に関しては、イラクは新たな書類を査察団に提出しました。また、ブリクス氏の要求に応じ、兵器開発計画に責任者として携わった人間たちによる調査委員会の設立を発表しました。</p>

<p>-	弾道ミサイルに関する査察も、イラクの情報提供により、同様に進展しています。われわれは今や、アルサムード・ミサイルの性能を正確に把握しています。現在なすべきことは、ブリクス氏の結論にしたがって、国連が禁止している兵器開発計画をイラクに破棄させることです。</p>

<p>-	核兵器に関しては、1月27日にエルバラダイ氏が言及したいくつかの最重要点について、ＩＡＥＡに有益な情報が提供されました。すなわち、ウラン濃縮に用いられ得るマグネットが入手されたという情報、およびイラクと、イラクにウランを提供したと思しき国の間の仲介者のリストです。<br />
　<br />
　これらの進展は国連決議1441の狙いにまさに合致しています。国連決議1441は、まず禁止されている兵器開発計画の内実の把握、そして次にその除去、という手順で、査察を実効的なものにするのであります。われわれは全員、査察を成功させるための前提として、イラク側の全面的協力を得る必要があることを認識しています。フランスはイラクに対し、一貫してそれを要求してきました。<br />
　<br />
　査察の実質的な成果が上がりつつあるわけです。イラクは偵察機の領空内飛行を許可しました。また、査察官によるイラク人科学者の聴取も立会人抜きでできるようにしました。以前から査察団が突きつけてきた要求にしたがって、大量破壊兵器の開発に関わるすべての活動を禁ずる法案が採択されようとしています。1991年の兵器プログラム廃棄に関与した専門家の詳細なリストも、遠からずイラク側から提出されるはずです。<br />
　<br />
　いうまでもなくフランスは、イラクのこのような協調を長期的に確認していかなければならないと考えています。のみならず、引き続きイラクに対して強い圧力をかけ、イラクがさらにいっそう協力的になるよう仕向けなくてはなりません。</p>

<p>　これらの進展の事実は、査察という手段が効果的であり得るという確信を強固にしてくれます。ただし、まだこれから成し遂げなければならない膨大な量の仕事からも目を逸らすわけにはいきません。問題点は引き続き明らかにされていかなければならないし、検証の作業も必要です。軍事施設や物資の廃棄もたぶん継続しなければなりません。そのためには、査察団が十全に活動できるような体制を整える必要があります。</p>

<p>　2月5日の安保理で、私はいくつかの提案をいたしました。その後、提案の内容を詳述した文書をブリクス、エルバラダイ両氏のもとに提出し、その内容を安保理の各理事国にも伝えました。</p>

<p>つまるところ、どういう提案であったか。実際的かつ具体的な提案であり、速やかに実行することが可能で、査察の効率を上げることを狙ったものでした。フランスの提案は国連決議1441の枠内にあり、したがって新たな国連決議を必要としません。いずれもブリクス、エルバラダイ両氏の作業を支援するのが主旨ですから、当然のこととして両氏自身が、査察の効率アップのために、いくつかある提案のうちのどれを選択するかを決めるでしょう。</p>

<p>両氏からは、御報告を通して、有益かつ実際的なコメントを頂戴しました。フランスがブリクス、エルバラダイ両氏に活用していただくために、ミラージュⅣ偵察機を始めとする追加手段を提供しようと考えていることは以前に述べたとおりであります。<br />
　<br />
　さて、もちろん、フランスの姿勢に批判的な方々がおられることは承知しています。たとえば、そもそも査察にはいっさい効力がないと考えている人がいます。そのような人に対しては、査察こそが国連決議1441のエッセンスだということ、そして<u>査察が成果を上げているのだということを再度申し上げたい。その成果を不十分と判断するのは自由ですが、成果が上がっているという事実は動かせません</u>。</p>

<p>　また、査察の継続は軍事介入を阻止するための一種の「引き延ばし工作」にちがいないと思っている人もいます。そうだとすれば、問題になってきているのは、イラクに与える時間的猶予です。ここに議論の焦点があり、問われるのはわれわれの信頼性と責任の意識です。では、勇気を持って、この問題を検討してみようではありませんか。</p>

<p>　われわれには選択肢が二つあります。</p>

<p>-	戦争という選択肢は一見、査察よりも手っ取り早いように思えるかもしれません。<u>しかし忘れるべきでないのは、戦争に勝ったあとで平和を構築しなければならないということです。そして、現実を直視しましょう。平和再構築の過程は長く困難なものとなるにちがいありません</u>。というのも、イラクが分断されないように配慮しながら、軍事介入によって深刻な影響を受けた国と地域に持続的な安定をもたらさなければならないからです。</p>

<p>-	こうした展望に対応するようにして、他方には査察という選択肢があります。査察の道を選べば、武装解除を一歩一歩、効果的かつ平和的に進めることができます。結局は、この選択のほうがより確実で、より迅速な解決をもたらすのではないでしょうか。<br />
　<br />
　誰ひとりとして今日、査察よりも戦争のほうが近道だなどと主張することはできません。また、誰ひとりとして、戦争によってより安全で、より公正で、より安定した世界がもたらされると主張することはできません。<u>なぜなら戦争とは常に、失敗したことの公然たる確認、つまり、失敗したときに余儀なく強いられる行為であるからです。</u>多くの問題を前にして、われわれには武力しか頼るものがないのでしょうか。けっしてそんなことはないはずです。<br />
　<br />
　ですから、国連査察団に、任務を成功させるために必要な時間を与えましょう。尤も、皆で警戒を怠らぬようにするに越したことはないので、ブリクス、エルバラダイ両氏に、安保理への定期的報告を要請しましょう。フランスは、3月24日に改めて安保理の外相会議を開催し、状況を検討することを提案いたします。その外相会議で、査察の進展と、残された課題について判断を下すことができるでしょう。<br />
　<br />
　このように考えると、現時点における武力行使は正当化できません。戦争に対する代替案が存在するのだからです。すなわち、査察によってイラクを武装解除することです。しかも、軍事的手段を早まって行使した場合、その結果は深刻なものとなります。<br />
　<br />
　今日、われわれの行動が権威を持つか否かは、国際社会の一致した支持を得られるかどうかにかかっています。時期尚早な軍事介入は国際社会の結束を揺るがせ、その結果、軍事介入が正統性を、そして長期的には効果を失うでしょう。<u>軍事介入は、ただでさえ傷つき、脆弱なものとなっている中東地域の安定に計り知れない深刻な影響を及ぼすものと思われます。人々の不公平感を募らせ、対立を深刻化させ、新たな紛争へと道を開くことになりかねないのです</u>。<br />
　<br />
　<u>われわれは優先事項を共有しています。断固としてテロリズムと闘うことです。</u>この闘いが要請するのは強い決意です。9月11日の惨劇以来、テロリズムと闘うことは諸国民に対するわれわれの責務の一つとなりました。テロリズムという酷い害毒による攻撃をいくたびも経験してきたフランスは、国の総力を挙げてテロリズムと闘っております。この闘いと無関係の国はありませんし、われわれは力を合わせてこの闘いを遂行せねばなりません。だからこそ1月20日には、このテーマに関する安保理が、フランスの発議で開催されたのであります。<br />
　<br />
　さて、10日前のことです。米国国務長官のパウエル氏は、アルカイダとフセイン政権には繋がりがあると思われると述べました。わが国が同盟諸国と連携しておこなっている情報収集と調査の現段階では、そのような繋がりを証拠立てるものは何ひとつ見つかっていません。</p>

<p>一方、反対の声を無視して軍事行動に踏み切るとすれば、その行動がどれほどの衝撃をもたらすかをも量らねばなりません。そのような軍事介入は、社会間、文化間、民族間の溝を深め、テロリズムの温床を作ることにならないでしょうか。</p>

<p>　<u>フランスは一貫して述べてまいりました。もし査察団の報告が査察の続行を不可能であると結論づけたならば、そのときには武力行使もやむなしとなる可能性があり、わが国はその可能性を排除しはしない、と</u>。そんな状況に立ち到った場合、安保理は安保理として態度を表明し、理事国はその責任を全うするよう努めなければなりますまい。</p>

<p>このような仮定において、私は二月四日の会議で強調した問いを再提起し、この問いにわれわれは答えを与えねばならないのだ、ということを申しておきたいと思います。すなわち、このたびの脅威のいかなる性質とどのような規模が、早急な武力行使を正当化するのか？　どのようにして、軍事介入に伴う大きなリスクを現実に抑制するのか？</p>

<p>いずれにせよ、こうした仮定の状況においても、国際社会の結束こそが、事を有効に押し進めるための保証でありましょう。同様に、今後何が起ころうとも、国連こそが将来にわたって平和構築の中心であり続けるでしょう。</p>

<p>　議長、戦争がいつ、どのように始まってしまうのかと恐れている人びとに向かって、私は今、安全保障理事会は何事も、どのような時においても、無理解、疑念、恐怖に囚われて早計に判断することはないと、そう告げたいと思います。</p>

<p>　<u>国連というこの厳粛な場で、われわれはひとつの理想を擁護する役割、良心というものを擁護する役割を担っています。この重責と、この栄えある名誉を自覚するとき、われわれは武力行使よりも平和裡の武装解除を優先すべきでありましょう。</p>

<p>　今日このことを述べるのは、古い国フランス、私の古い大陸、ヨーロッパです。この国は、この大陸は、戦争、占領、蛮行を経験しました。この国は米国をはじめとする諸外国から駆けつけてくれた自由の戦士たちのことを忘れてはいませんし、彼らにどれほどのものを負っているかを知っています。</p>

<p>　しかしこの国も、歴史に向かい合い、人類を前にして、膝を屈することなく真っ直ぐに立ち続けてきました。この国は自らの奉ずる諸価値に忠実に、国際社会のすべての構成員とともに、敢然と行動してゆきたいと思っています。この国フランスは、国際社会には、つまりわれわれには、より良い世界を共同で構築する能力があると信じているのです。</u></p>

<p>　ご静聴ありがとうございました。（★下線による強調はすべて堀）</p>]]></content:encoded>



<dc:creator>Eleutheria</dc:creator>
<dc:date>2017-05-13T08:12:06+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/05/post-49f4.html">
<title>個別性への想像力――世界文学の効用――</title>
<link>http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/05/post-49f4.html</link>
<description>　故米原万里のノンフィクション『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』（角川文庫）の中で、マリという名の語り手（≒著者）が次のような印象的な台詞を吐いている。

　《だいたい抽象的な人類の一員なんて、この世にひとりも存在しないのよ。誰もが、地球上の具体的な場所で、具体的な時間に、何らかの民族に属する親たちから生まれ、具体的な文化や気候条件のもとで、何らかの言語を母語として育つ。どの人にも、まるで大海の一滴の水のように、母なる文化と言語が息づいている。母国の歴史が背後霊のように絡まりついている。それから完全に自由になることは不可能よ。そんな人、紙っぺらみたいにペラペラで面白くもない》（p.188）

　...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>　故米原万里のノンフィクション『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』（角川文庫）の中で、マリという名の語り手（≒著者）が次のような印象的な台詞を吐いている。<a href="http://irrespect.txt-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2009/05/15/photo_2.jpg" onclick="window.open(this.href, '_blank', 'width=180,height=253,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img alt="Photo_2" title="Photo_2" src="http://irrespect.txt-nifty.com/blog/images/2009/05/15/photo_2.jpg" width="100" height="140" border="0" style="float: right; margin: 0px 0px 5px 5px;" /></a></p>

<p>　《だいたい抽象的な人類の一員なんて、この世にひとりも存在しないのよ。誰もが、地球上の具体的な場所で、具体的な時間に、何らかの民族に属する親たちから生まれ、具体的な文化や気候条件のもとで、何らかの言語を母語として育つ。どの人にも、まるで大海の一滴の水のように、母なる文化と言語が息づいている。母国の歴史が背後霊のように絡まりついている。それから完全に自由になることは不可能よ。そんな人、紙っぺらみたいにペラペラで面白くもない》（p.188）</p>

<p>　同書に「解説」を添えた齋藤美奈子は、この一節を引用（ただし、 「どの人にも、まるで……」から「……絡まりついている」までの部分をおそらくは意図的に省略）し、21世紀の「私たちに求められているのもまた『具体的に生きるだれか』に対する想像力です。もちろんそれがナショナリズムにたてこもる方向ではなく、互いの多様な文化を認め合う方向でなければならないことは、いうまでもありません」と書いている。</p>

<p>　OK、そのことは確かに「いうまでもない」。その「いうまでもない」ことを念押ししするだけでも、○○人とか、△△民族とかいうグループのアイデンティティを超える視点を持つこと自体を糾弾するような偏狭な精神が再びのさばり始めている今日、けっして無駄ではない。しかし、そこまではまあ、ふつうの良識の持ち主なら誰でも難なく了解するのだ。本当の問題はその先にある。あるいは、もう少し掘り下げたところにある。多様な条件と環境の中で「具体的に生きるだれか」への想像力とは、いったいどういう想像力なのか？　「互いの多様な文化を認め合う」とはつまり、諸文化の間の差異をどう扱うことなのか？</p>

<p>　それは、「だれか」の内に息づいている「母なる文化と言語」や、「背後霊」のような「母国の歴史」を見出し、人間はそれぞれ異なる文化・言語・歴史を「母なる」ものとして背負っている以上、「抽象的な人類の一員」としての普遍性なんか嘘っぱちだと感得することだろうか。なるほど、そうすればわれわれは、さまざまな形をとる特殊性 ― 文化的・言語的・歴史的特殊性 ― のリアリティを実感することにはなるだろう。が、果たしてそれで、互いの特殊性を特殊性として、すなわちヴァリエーションとして「認め合う」ことができるだろうか。まして、「具体的に生きるだれか」に、すなわち具体的な個人としての他者に、思いを致すことができるだろうか。むしろ逆効果で、さまざまなレベルの集団的アイデンティティに「たてこもる」結果を招くのではないだろうか。</p>

<p>　そもそも、多様性を云々するのは、同一と見なすものについてではないのか。同一性をベースにしなければ多様性など語ることもできないだろう。三毛猫、黒猫、シャム猫……、一概に猫といってもいろいろだ。多様だ。しかしこれは、いずれも猫だという了解の上での話である。猫、犬、馬、イルカ……、それぞれに特殊だ。この多様性も、哺乳類という同一性を認めるからこその多様性だ。いいかえれば、何らの特殊性も帯びていない無色透明の普遍が「この世に存在しない」のが事実であっても、われわれは普遍性を想定して初めて、特殊性を特殊性として捉え、多様性を認めることができるのだ。「抽象的な」レベルでの人間の普遍性をもし否定してしまえば、文化・言語・歴史の差異は絶対的なものとなり、「多様な文化を認め合う」どころか、異文化間ではコミュニケーションすら不可能となるだろう。</p>

<p>　次に、個別性は特殊性ではない。ここにひとりの日本人がいるとしよう。日本文化、日本語、日本国の歴史、あるいは作られた神話でしかない日本人の民族性等々、そんなものをいくら積み重ねても、代替不可能な個としてその人間を捉えることはできない。性別、年齢、出身地、階層、職業、身長・体重、趣味、癖、挙げ句の果ては血液型！（笑）……いくら詳細な属性データを入力してもダメである。そういう「科学的」なやり方で最終的に掴まえる（＝アイデンティティを定義する）ことができるのは物と、植物と、動物までである。人間も生物学的には動物だが、その個別性は間主観性の中で形成されていく意識の個別性なので、仮にある人物のクローンが存在したとしても、それはまた別の個となる。「具体的に生きるだれか」の個別性（＝かけがえのなさ）は、どのような特殊性にも還元できない。</p>

<p>　あまり長くなることは避けたいので、結論を急ぐ。「具体的に生きるだれか」への想像力とは、代替不可能な個としての他者への想像力であろう。それを持とうとすること自体がすでに、人間の普遍性への信頼を、あるいは少なくともそれへの賭けを含意している。普遍性を絵空事として退けるのではなく、むしろベースとして、より正確には地平線として他者と共有するときにこそ、われわれは「互いの多様な文化を認め合う」ことができる。個別性への想像力が生きる空間は、したがって、有意味な理念のレベルの普遍性と、事実のレベルの多様な与件であるところの特殊性の狭間に存する。</p>

<p>　それはとりもなおさず、文学が、特に世界文学が可能にし、耕すコミュニケーションの空間であることに、誰が気づかずにいられようか。映画のように映像を与えてしまうのではなく、言葉によって人の想像力に働きかけ、時代的・地理的・言語文化的等々の隔たりを超えて個別具体的な作中人物への同化を促す文学作品の人間教育的効用は大きい。世界文学――学問としての文学ではなく、作品群としての文学――は、人間の個別性を探究するとともに擁護する普遍的コミュニケーションだといえるだろう。</p>]]></content:encoded>


<dc:subject>哲学＆文学</dc:subject>

<dc:creator>Eleutheria</dc:creator>
<dc:date>2017-05-12T01:03:20+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/05/20051226-1f49.html">
<title>ナショナリズムって何？――思想史の視座から――(2005/12/26）</title>
<link>http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/05/20051226-1f49.html</link>
<description>　「ナショナリズム」――Nationalism（英）、Nationalisme（仏）――という語はおそらく英国起源なのですが、政治関係の語彙がしばしばそうであるように、フランス語の中に入って特別な意味を帯び、その上で国際的に流通するようになったようです。

　フランスである程度広く用いられ始めたのはどう早く見積もっても19世紀後半です。1874年刊行のラルース大辞典を見ると、当時から語義が二つあったことが分かります。自国や自民族を盲目的に賛美し、他国や他民族を侮蔑する態度、つまり偏狭な愛国心を意味する一方で、一九世紀ヨーロッパに勃興した、ネーションの独立ないし自律を求める運動をも指していたので...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>　「ナショナリズム」――Nationalism（英）、Nationalisme（仏）――という語はおそらく英国起源なのですが、政治関係の語彙がしばしばそうであるように、フランス語の中に入って特別な意味を帯び、その上で国際的に流通するようになったようです。</p>

<p>　フランスである程度広く用いられ始めたのはどう早く見積もっても19世紀後半です。1874年刊行のラルース大辞典を見ると、当時から語義が二つあったことが分かります。自国や自民族を盲目的に賛美し、他国や他民族を侮蔑する態度、つまり偏狭な愛国心を意味する一方で、一九世紀ヨーロッパに勃興した、ネーションの独立ないし自律を求める運動をも指していたのです。</p>

<p>　ところが、世紀末になると、また別の語義が付け加わりました。すなわち、ナショナルな価値と利益の首位性(プライマシー)という主張です。この三つ目のナショナリズムこそ、当時台頭したナショナリストたち――Ｍ・バレス、Ch・モーラス等――のイデオロギーでした。今日でもなお、「ナショナリズム」の概念はおおむねこのような三層構造を成しているように思われます。</p>

<p>　以上のことを確認した上でまず言えるのは、ナショナル・アイデンティティの自覚、ネーションへの帰属意識、祖国への自発的な愛といったものを、ただちにナショナリズムと見做すわけにはいかないということでしょう。自国至上主義や排外主義(ショーヴィニズム)を伴わないパトリオティズムは、ナショナリズムと混同されるべきではありません。</p>

<p>　次に、ここのところが重要なのですが、イデオロギーとしてのナショナリズムが至上の価値とするのは、「市民」という政治的単位を核とする普遍主義的構築物としての近代的ネーションではありません。そうではなくて、歴史的共同性と文化的特殊性によって定義されるエスニックな共同体か、もしくは、そのような閉じられた同一性の共同体として想像される場合の国家です。</p>

<p>　ですから、ナショナリズムは実は、あらゆるネーションに付随するイデオロギーではないのです。それどころか、近代的・市民的ネーションは、本来の普遍主義とリベラリズムを国家の内外で堅持する限りにおいて、エスニシティを超え、ナショナリズムに立ちはだかるプロジェクトだとさえいえます。</p>

<p>　さまざまな帝国の支配に対してネーションの独立を求めた歴史的ナショナリズムは、リベラルな観点から見ても正当な運動だったわけですけれども、その中にすでに民族的・文化的共同体主義のラディカル化という躓きの石が含まれていたと考えるべきなのかもしれません。</p>

<p>　結局、今日、政治的レベルにおいてナショナリズムと呼ばれるべきは、一方では既存のネーションの利己的膨張主義であり、他方では、排他的な特殊性であるエスニーが「民族自決」の名において<u>そのまま</u>主権国家たろうとする運動です。この後者は、民族と文化を超える普遍性の地平へと開かれた市民的ネーションが主権国家を創設するのとは似て非なる運動です。</p>

<p>　最後に、精神的態度としては、ナショナリズムはどう定義されるのでしょうか。</p>

<p>　自らの所属するグループ――国家、ネーション、エスニック集団など――の有限性を認めないのが、ナショナリストの究極の問題点です。これはとりもなおさず、自分のグループを「公」と見立て、その首位性(プライマシー)を主張し、それを超越する普遍的な価値や機関の存在をいっさい認めないということです。</p>

<p>　その上でナショナリストは、彼が「公」と見做すグループに対する忠誠の名において、「私」の自由と利益を打ち捨てます。献身、自己犠牲というわけです。ところがそこには心理のカラクリがあって、彼は個人としては捨てたかに見えた自我を実はグループに投影していて、グループ（すなわち贋の「公」）のレベルで数十倍にして取り戻すのです。ナショナリズムに、個人として自我を主張できない気弱な人たちに癒しをもたらす面があるのは、基本的にこういうわけなのです。（初出：『KEIO SFC REVIEW』No.28、2006年03月01日発行）</p>]]></content:encoded>



<dc:creator>Eleutheria</dc:creator>
<dc:date>2017-05-09T07:04:21+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/05/post-f39d.html">
<title>組み体操の「現象学」（2017/01/09）</title>
<link>http://irrespect.txt-nifty.com/blog/2017/05/post-f39d.html</link>
<description>　十数年前から小・中・高校の運動会で組み体操が名物のようになり、どんどん巨大な構築へとエスカレートしていたこと、それにともなって頻発する事故が近年各種メディアで問題視されるようになっていたことは、皆さんご存知にちがいない。
　
　ところが、夙に組み体操の危険性を指摘して来た名古屋大学大学院准教授・内田良さんのブログ（YAHOO！ニュース、2016年12月30日）によれば、昨年は全国で事故が大幅に減少したそうだ。たとえば大阪では、一昨年との比較で、組み体操を実施する市立小学校が293校から201校に減り、負傷事故件数も71.4％の減となったらしい。それでも12名もの小学生が骨折したというのだから...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>　十数年前から小・中・高校の運動会で組み体操が名物のようになり、どんどん巨大な構築へとエスカレートしていたこと、それにともなって頻発する事故が近年各種メディアで問題視されるようになっていたことは、皆さんご存知にちがいない。<br />
　<br />
　ところが、夙に組み体操の危険性を指摘して来た名古屋大学大学院准教授・内田良さんのブログ（YAHOO！ニュース、2016年12月30日）によれば、昨年は全国で事故が大幅に減少したそうだ。たとえば大阪では、一昨年との比較で、組み体操を実施する市立小学校が293校から201校に減り、負傷事故件数も71.4％の減となったらしい。それでも12名もの小学生が骨折したというのだから「恐れ入る」けれども……。名古屋市でも実施校が23.8％減少し、骨折事故も28件から3件に減ったという。</p>

<p>　この変化の理由はひとえに、一昨年まで「現場の裁量にまかせる」と傍観を続けていた教育行政――つまり文科省――がついに昨年、安全対策の要請に舵を切り、それを受けて各自治体が「ピラミッド」だの、「タワー」だのと呼ばれる組み体操の「段数制限（中止を含む）に取り組んだからに尽きる」と、内田准教授は説明してくれている。何はともあれ、事態が改善に向かったことは喜ばしい。運動会やその練習で続々ケガ人を出すなど、誰が見ても本末転倒だろう。</p>

<p>　だがここで、天邪鬼な私の脳裡に疑問符「？」が浮かび上がる。もし組み体操が安全に実施できるならばどうか？　その場合、われわれ日本人はまた嬉々として組み体操を流行らせるのだろうか。</p>

<p>　あらゆるイデオロギーや価値観を脇に置き、組み体操なるものをひとつの現象として、すなわち、われわれの意識の前に立ち現れる経験的事実として、あるがままに見てみよう。すると一目瞭然、次の三点に気づく。<br />
　<br />
　①組み体操はその外にいる者にしか全景の見えない見世物である。演技者は何も見ることができず、たとえ主体的に参加していても純然たる客体となる。</p>

<p>　②組み体操の一体性の中では個人が埋没する。自由を奪われ、移動も、離脱も、身動きもできない。全体の一部品に還元され、個としては価値を認められない。</p>

<p>　③組み体操の全景が示すのは大きな雛壇にも似たヒエラルキーである。不平等を組織原理とするこの階層秩序の中では、つねに下へ下へと重圧がかかる。</p>

<p>　こうした構築物の表象するものを全体主義だとまでは言わない。しかし少なくとも、かけがえのない〝個〟というものを知らぬコンパクトな集団、インドのカースト制共同体に代表される「全体論」（ホーリズム）的世界であることは間違いない。</p>

<p>　そこには個人が個人として存在しないのだから、喧伝される絆も、連帯も、実はありはしない。あるのは一体感だけである。組み体操は、蟻や蜜蜂の共同体のメタファーともいえる。たとえ仮に安全に実施できるとしても、人間教育にとって好ましいエクササイズだとは到底思えない。【初出：『ビッグコミック・オリジナル』2017年2月5日発売号】</p>]]></content:encoded>



<dc:creator>Eleutheria</dc:creator>
<dc:date>2017-05-07T16:01:18+09:00</dc:date>
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<title>日本的「一体感」の表と裏（2016/08/26）</title>
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<description>　リオデジャネイロ五輪で、日本選手団は金12、銀8、銅21、合計で史上最多41個のメダルを獲ったという。まあ、万々歳だ。国別のメダル争いなんておかしいと、野暮なことは言うまい。「国を背負って」の競技会だからこそ、オリンピックやワールドカップがここまで人々を熱狂させるのである。

　実際、ＴＶを通して日本中を「感動した！」の渦に巻き込んだのは、なかんずく競泳男子八百米リレーの銅、体操男子団体の金、卓球男子団体の銀、同女子団体の銅、陸上男子「四×百米」リレーの銀など、個人競技の国別団体戦だった。日本人の場合は特に、たとえ個の力で劣ってもチームが力を合わせる、というのが心の琴線に触れる。

　泣かせ...</description>
<content:encoded><![CDATA[<p>　リオデジャネイロ五輪で、日本選手団は金12、銀8、銅21、合計で史上最多41個のメダルを獲ったという。まあ、万々歳だ。国別のメダル争いなんておかしいと、野暮なことは言うまい。「国を背負って」の競技会だからこそ、オリンピックやワールドカップがここまで人々を熱狂させるのである。</p>

<p>　実際、ＴＶを通して日本中を「感動した！」の渦に巻き込んだのは、なかんずく競泳男子八百米リレーの銅、体操男子団体の金、卓球男子団体の銀、同女子団体の銅、陸上男子「四×百米」リレーの銀など、個人競技の国別団体戦だった。日本人の場合は特に、たとえ個の力で劣ってもチームが力を合わせる、というのが心の琴線に触れる。</p>

<p>　泣かせる台詞にも事欠かない。前回のロンドン五輪では、競泳男子八百米リレーで銅メダルを獲った松田丈志選手が、みんなで「（北島）康介さんを手ぶらで帰らせるわけにはいかない」と団結したと語った。今回も、卓球女子の十五歳、可愛らしくも頼もしい伊藤美誠選手が、「先輩を手ぶらで帰すわけにはいかない」と頑張ったと言ってのけた。</p>

<p>　やはり日本人は、よくも悪しくも、チームの一体感に幸福を感じる社会文化を生きている。そしてこの文化的特質が、日本人の競技スタイルにも――そして実は社会生活全般にも――大きな影響を及ぼしているように思われる。陸上の短距離リレーでのバトンタッチの見事さを見よ。選手レベル・組織レベルでの連携こそ、日本のお家芸なのだ。</p>

<p>　しかし、コインには必ず裏側がある。女子レスリングで四連覇を逃した吉田沙保里選手のことを思い出さずにはいられない。決勝に臨む時の彼女の蒼ざめた顔と、銀メダルに終わった時の涙。あの偉大なチャンピオンが、試合後のインタビューで、「日本選手の代表として金メダルを獲らないといけないところだったのに、ごめんなさい」と謝ったのである。</p>

<p>　惜敗した選手が、なぜ国民に謝らなければならないのか。日本国内に負けをなじるバカ者どもがいるからだろうか。むしろ、先述のような社会文化に馴染んでいる人が、疑似家族的グループ（選手団、壮行会、日本全体……）のトップに立たされたときに引き受けてしまう過剰な責任感のせいだろう。一体感を貴ぶ日本の文化は、反面で息苦しい。フレンドリーな団結は清々しいが、家族主義的な重圧をかけるような一体感はほどほどにした方がよい。</p>

<p>　そもそも、ＴＶの前で観ているだけの国民が選手の殊勲を勝手に共有して、「同じ日本人として誇りに思う」のがおかしいのである。そんな誇りは、「虎の威を借る狐」の誇りでしかない。「同じ日本人として素直に喜ぶ」程度にしておきたい。</p>

<p>　吉田沙保里選手に、また笑顔で強く優しい姿を私たちに見せてください、といったメッセージを送るのも感心しない。それではまたしても、「私たち」という疑似家族的グループが吉田選手の心を縛ることになる。基本自由な、さらっとした個人に立ち帰ってもらう方が健康的だと私は思う。　【初出：『ビッグコミック・オリジナル』2016年９月20日発売号】</p>]]></content:encoded>



<dc:creator>Eleutheria</dc:creator>
<dc:date>2017-05-06T06:54:03+09:00</dc:date>
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